御髪下ろし給ひぬ
2006年 11月 29日
mixiに最近興味を抱いてきてたんですが(遅)、
なんて思ってたら利用人口が衰退気味だというニュースが。
とかくネットの流行り廃りは移ろいやすいもので、うかうかしてるとすぐに
時代遅れとバカにされそうです。
私事ですが、先日、ネット上で見知っていた大勢の人に現実世界で出会えるという
好機に恵まれたんです。いやはや、何だかんだ言ってやっぱり現実の対面は違う。
ネットでの対面では見えてこない物があるんだなあとひしひし実感した次第。
だって、現実に出逢わないと相手が笑いませんから。wや(笑)を使えばある程度
伝えようとすることは出来ますが、それは所詮文章の装飾ですからね。
その人の表情を示すもんじゃない。
ネット上でずっと見てた人達を、本当に「見る」ことが出来たなあ、と思った瞬間でした。
最近「mixiはブログなんかより相手が身近に感じられる!」なんて言う人が
身近にいまして、それに内心首を傾げまくってました。
先に記した「興味を抱いた」というのは、それに対する研究対象的な意味もあります。
このmixiという場に限って、ネットコミュニティの壁を越えようとする動きが
散見されるのがちょっと気になる。
やたらに本名が晒されたりとか、個人情報の類で下手を打って大騒動になったりとか。
その人の言じゃありませんが、どこかネット上にあって現実に近い、みたいな
幻想を抱かれてる節があるらしくて。
すっぱり言えば、いささか「胡散臭い」コミュニティとして私の目には映ってました。
ネットはどこまで行ってもネットです。相手と血の通った会話をしているようで、
所詮文章がやりとりされているだけに過ぎない。mixiだろうがブログだろうが
BBSだろうが、そこに現実世界のような人間関係を期待してはいけない。
それは分を越えた幻想でしかない。
換言すれば、ネットで人付き合いする者すべからく、その人間関係には
絶対に越えられぬ壁があると知り置くべし……ということになる。
mixiの機能の成せる業なのか知りませんが、結構その境界をあやふやなものに
捉えてる人が多い……それが、私のmixiに対する印象です。
居所が離れてる人達の通信網としてならいざ知らず、どこか現実の人間関係に
億劫な人がその代替をネットコミュニティに求めてるという傾向がある。
これは巷で声高に言われてることですし、それ自体は別段問題とは思いません。
しかしやっぱり、ネットは絶対に対面会話の代わりにはなれません。
対面して声で話してこそ相手のありのままの反応が見えるし、笑顔が分かるし、
声音に滲む感情や人となりが汲み取れる。
ネットでは絶対に代替出来ません。
先述したネット知人との邂逅は、それ故本当に大きな経験だったように思います。
因みに何故私がmixiをやってみたいなどと思い始めたかということにしても、
単に彼らの多くが平素mixiという場で活動されていると聞き及んだから、という
それだけの理由にすぎないんです。つまるところ私は、mixiのコミュニティの特性に
惹かれた訳ではなかったり。
ここまで書いてきたとおり、私はmixiを数あるネットコミュニティ手段のひとつに
すぎない、とドライに考えていますし、何より実はmixiの特色とか何にも知りませんから。
なんてこった。
……とまあ、何はともあれ。
繰り返しになりますがネットはネット。活字で人の感情は量れません。
そしてデジタルな会話に過度な幻想を抱くのは、愚かだの何だのよりもまず
非常に危険。それこそ人間をゲームキャラのように見てしまいかねない。
現実の人間は常に、シナリオ無く表情や心情を変えてゆく生き物。
うっかりネットコミュニティと現実をダブらせすぎると、色んな意味で取り返しの付かない
対価を支払うことになる気がします。
自分に対する制御という意味では、ネットコミュニティはある意味で、現実の人間関係より
慎重さが要求されているように思えますね。
「モニタの向こうの人間の感情を汲むのは難しい。本当に親しくしようとするなら、
まず逢って一杯酒を酌み交わせ」
……これ、私の好きなゲームクリエイターの言葉です。
水魚の交わりは一杯の酒から。酒までは難しいにしても、その人を人としてみるには、
せめてまず一度出逢ってから。
その後ネット上で関係を保つにしても交誼を断つにしても、何はともあれ
一度相見えないと何も語れない気がします。だって相手も人なんですから。
にんげんだもの(みつを)。
……結局何が言いたかったのかよく分からない記事になりました。
そもそも、碌に知りもしない世界についてしたり顔で喋ったのはいかにも阿呆やな。って。
つかくだ巻いてただけかもしれません。酒飲んでないのに酔っ払い気味なtaoyaoです。
最近更新さぼりまくりなので、そのうち京都旅行記とか書こうと思います。
こーごきたい。
なんて思ってたら利用人口が衰退気味だというニュースが。
とかくネットの流行り廃りは移ろいやすいもので、うかうかしてるとすぐに
時代遅れとバカにされそうです。
私事ですが、先日、ネット上で見知っていた大勢の人に現実世界で出会えるという
好機に恵まれたんです。いやはや、何だかんだ言ってやっぱり現実の対面は違う。
ネットでの対面では見えてこない物があるんだなあとひしひし実感した次第。
だって、現実に出逢わないと相手が笑いませんから。wや(笑)を使えばある程度
伝えようとすることは出来ますが、それは所詮文章の装飾ですからね。
その人の表情を示すもんじゃない。
ネット上でずっと見てた人達を、本当に「見る」ことが出来たなあ、と思った瞬間でした。
最近「mixiはブログなんかより相手が身近に感じられる!」なんて言う人が
身近にいまして、それに内心首を傾げまくってました。
先に記した「興味を抱いた」というのは、それに対する研究対象的な意味もあります。
このmixiという場に限って、ネットコミュニティの壁を越えようとする動きが
散見されるのがちょっと気になる。
やたらに本名が晒されたりとか、個人情報の類で下手を打って大騒動になったりとか。
その人の言じゃありませんが、どこかネット上にあって現実に近い、みたいな
幻想を抱かれてる節があるらしくて。
すっぱり言えば、いささか「胡散臭い」コミュニティとして私の目には映ってました。
ネットはどこまで行ってもネットです。相手と血の通った会話をしているようで、
所詮文章がやりとりされているだけに過ぎない。mixiだろうがブログだろうが
BBSだろうが、そこに現実世界のような人間関係を期待してはいけない。
それは分を越えた幻想でしかない。
換言すれば、ネットで人付き合いする者すべからく、その人間関係には
絶対に越えられぬ壁があると知り置くべし……ということになる。
mixiの機能の成せる業なのか知りませんが、結構その境界をあやふやなものに
捉えてる人が多い……それが、私のmixiに対する印象です。
居所が離れてる人達の通信網としてならいざ知らず、どこか現実の人間関係に
億劫な人がその代替をネットコミュニティに求めてるという傾向がある。
これは巷で声高に言われてることですし、それ自体は別段問題とは思いません。
しかしやっぱり、ネットは絶対に対面会話の代わりにはなれません。
対面して声で話してこそ相手のありのままの反応が見えるし、笑顔が分かるし、
声音に滲む感情や人となりが汲み取れる。
ネットでは絶対に代替出来ません。
先述したネット知人との邂逅は、それ故本当に大きな経験だったように思います。
因みに何故私がmixiをやってみたいなどと思い始めたかということにしても、
単に彼らの多くが平素mixiという場で活動されていると聞き及んだから、という
それだけの理由にすぎないんです。つまるところ私は、mixiのコミュニティの特性に
惹かれた訳ではなかったり。
ここまで書いてきたとおり、私はmixiを数あるネットコミュニティ手段のひとつに
すぎない、とドライに考えていますし、何より実はmixiの特色とか何にも知りませんから。
なんてこった。
……とまあ、何はともあれ。
繰り返しになりますがネットはネット。活字で人の感情は量れません。
そしてデジタルな会話に過度な幻想を抱くのは、愚かだの何だのよりもまず
非常に危険。それこそ人間をゲームキャラのように見てしまいかねない。
現実の人間は常に、シナリオ無く表情や心情を変えてゆく生き物。
うっかりネットコミュニティと現実をダブらせすぎると、色んな意味で取り返しの付かない
対価を支払うことになる気がします。
自分に対する制御という意味では、ネットコミュニティはある意味で、現実の人間関係より
慎重さが要求されているように思えますね。
「モニタの向こうの人間の感情を汲むのは難しい。本当に親しくしようとするなら、
まず逢って一杯酒を酌み交わせ」
……これ、私の好きなゲームクリエイターの言葉です。
水魚の交わりは一杯の酒から。酒までは難しいにしても、その人を人としてみるには、
せめてまず一度出逢ってから。
その後ネット上で関係を保つにしても交誼を断つにしても、何はともあれ
一度相見えないと何も語れない気がします。だって相手も人なんですから。
にんげんだもの(みつを)。
……結局何が言いたかったのかよく分からない記事になりました。
そもそも、碌に知りもしない世界についてしたり顔で喋ったのはいかにも阿呆やな。って。
つかくだ巻いてただけかもしれません。酒飲んでないのに酔っ払い気味なtaoyaoです。
最近更新さぼりまくりなので、そのうち京都旅行記とか書こうと思います。
こーごきたい。
# by taoyao | 2006-11-29 00:00