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GGで負けた五輪野球   

2008年 08月 23日

 とりあえずあのGGはしばらく顔も見たくないですね。


 
 基本的に一所懸命やった結果のミスならしょうがない、ってのは小学生の論理です。
 そもそも大舞台の大事なところで3失策とか、どう言い訳したって通用しません。
 本当に「必死」でやってれば、代表に選ばれるような外野手が2試合で3エラーとか絶対ありません。気持ちが緩んでたか、或いは手を抜いてたってことなんですよ。

 個人的にはいけ好かない監督でしたが、日本を背負って必死でやってくれた星野さんにも申し訳ないし、ちゃんと必死でプレーしてくれた他の選手にも申し訳ない。彼らの意気込みに応えるだけの気概が、あの下手くそ外野手にあったかってことです。
 昨日の今日でああいうミスをする、その時点でもう気持ちで負けてるのは明らか。
 別にオリンピックの野球で一位になることにどれだけの意味があるとは思いませんがまあ、ああいう選手を一人選んじゃったってのが、強いて言えば星野JAPANの一番の敗因ですかね。
 所詮あの程度の選手ってことです。おちゃらけた登録名つけて、いい気になるのは十年早い。
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by taoyao | 2008-08-23 16:34

夏と花火と私の死体   

2008年 08月 11日




 思えばそんなタイトルの本を買うだけ買って本棚に突き刺してあったような気も。
 よく訓練されている人はそれを「積み本」というそうな。
 
 積み本だけは豊富なので相変わらず上辺だけの読書家を繕っておりますが――
 花火大会皆々様お疲れさまでしたの巻。
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by taoyao | 2008-08-11 00:00 | 私心

願いはどこにある   

2008年 08月 06日

 原爆が投下された日付や時間を知らない子達が増えている――という問題にニュースが警鐘を鳴らすわけです。私としては、そんなことは小さな問題なのにと思う。
 広島の大学に在学していた私は、広島の原爆の惨禍にはついに辿り着けなかった。せっかくだからということで毎年の平和記念式典には参加していたけども、その中で原爆の熱や光が胸に届くことは無い、これは当たり前のことでした。

 原爆という記憶が風化していく中で、守ろうとしても守れないものは必ずある。それに足掻くのではなくて、本当に守らなければいけないものを探す方向へ、8月6日というこの日付は方向転換する時期に迫られているように思う。原子爆弾という兵器が過去の物となっていく中で、人の心を推し量る物が原爆投下の日付の知識なんかであっては、私は絶対にいけないと思っている。
 平和はテストの点数でもなければ、カルトクイズの問題でもない。
 それだけでは必ず、同じ過ちをどこかで繰り返すだけになる。

 私達がどうして原爆を忌むかを、もう一度考えてみなければいけない気がしている。原爆が落ちなければ、戦争が起きなければ、核兵器が無くなればこの世界は平和になるのか。
 ふと胸に記憶を問い掛けてみて、今年一年間、誰をも恨まず憎まず、妬んだりもせずに生きてこられたか。ちょっとカッカしたことは必ずほぼすべての人にある。
 その憎しみが戦争に繋がると道徳の先生は言うけども、そんなことはありはしない。私達の手にはそんな権力はない、けどもそれが私達の穏やかさを奪ったのは事実だと思うし、つまるところ私達にとっての平和というものは、核兵器や戦争で語ってもしょうがないということになる。
 いつからか学校では、平和を、戦争と表裏一体でしか考えられなくなった。
 何しろ街の中で誰かお爺さんやお婆さんが病気で亡くなれば、何人かの人は必ず哀しんでいる。誰も悪くなくても平和という物は消えうると私は思うし、願うだけで維持できるほど、平和とは甘いものでもないと思う。

 人を憎むのにはエネルギーが必要。瞬間的な怒りもそうだし、恨むことを止めてしまった時に自分が負けた気分になりそうで怨みを繋ぎ止める、その力も莫大だ。
 広島の人たちは、あまり憎しみという言葉を口にしない。ただ原爆という惨劇を哀しむ気持ちを持った人たちが、あの平和記念式典や資料館を作り上げている気がした。だからこそ、秋葉市長のスピーチが心に響かないんじゃないかと私は思っている。時として市長のスピーチは、本当の哀しみを抱えた方々と違う方へ向いているんじゃないかと思う時がある。

 誰かが笑顔でいられるその為に、自分を思い出す日であれば良い。
 原爆の日付ではなくて、誰かを恨むことの哀しさや誰かを失うことの辛さ――そういったものを教え、気付かされる日であって良いと、私は今日8月6日のことを思っている。近隣諸国との外交問題でさえ、実は私達にとっては他人事。中国や韓国を恨めばそれだけで酒は不味い、そして中韓と和平を結べても代わりに職場の隣の机の人、クラスメートなんかと喧嘩して禍根を引きずってしまえば、私達は生活問題として数倍生きにくくなる。
 原爆の日がそうやって、少しだけ他人事になりつつあると私は思う。
 より現実的に、より即物的平和というものを考えてゆけば考えるほどに、それが周りの人の笑顔なんだと気付ける。核兵器や戦争だけが定義する物じゃない。原爆がやがて過去の物となり誰もが忘れたとしても、その時まで語り継げる、語り継ぐべき物は確かにあると私は思っている。
 核兵器は廃絶されてこそ意味がある……という秋葉市長の物言いの可笑しさに、もっと私達は気付いて良い。そして戦争や原爆の忌日にシュンとしおらしくする必要はないから、もっと笑って、今の世界に少しだけ残った平和を大切にしていきたい。
 そうすれば、少なくとも私と周りの人は、平和に生きて行けるのではないか。
 平和なんてことを考えるのは年に5分で良いんだけども、時としてそれが、理由もなく壊れてしまうことを考えておかねばならない。誰かを恨むことで気分の悪い一日になれば、それはもう平和と称せない。或いは、誰をも恨むことの出来ない不幸もある。

 原爆を忌む、という活動の意味を、もう一度考えてみる必要があると思う。
 平和というのは知識や厳粛さによってもたらされるものでないということだけ、私達が自覚しておきたい。
 政治家にも科学者にも、中学生にもサラリーマンにも自分なりの平和があって、それぞれが誰かの平和と共感するわけではない。とげとげした日常など誰も好き好んで送りたくはないから、ニュースを見ていなくても、知らない間に平和を求めて生きていたりもする。
 誰にしも、等身大で考えるその人なりの平和があるはずだと私は思うし、原爆の日が機能するとすれば、それを考える切っ掛けでさえあれば良いと思っている。
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by taoyao | 2008-08-06 23:10 | 私心