「自由な社会」に生きる者として。   

2006年 09月 21日

都教委の国歌斉唱強請は違憲 東京地裁が判決


入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代斉唱を強制するのは憲法で保障された思想・良心の自由を侵害するとして、東京都立高の教職員ら約400人が都教育委員会を相手取り、起立や斉唱の義務が存在しないことの確認を求めた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。難波孝一裁判長は「強制は違法、違憲」と判断し、起立や斉唱の義務がないことを確認したうえ、一人当たり3万円の慰謝料の支払いを命じる判決を言い渡した。
(毎日新聞)



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例えば上から押しつけられた思想や制度を疑いもなく受け入れていた時代に比べれば、
個人の思想の幅、或いはそれを許す社会の度量も順当に高まってきたのだなあという
印象を受けます。しかし社会にあっては、必ずしも我を通しきるのが正道でもなく、
郷に入っては郷に従うもまた社会の一常識として捉えられます。
私個人の意見は比較的後者に傾いた論なのですが、ひとまず客観論としては、
この対立を支える主論点は、以上の二つに大別出来ると見て間違いないでしょう。

日本にいるから君が代を受容すべきであるというのは暴論に過ぎ、また君が代を
気に入らないからと言って集団行動を掻き乱すのも短慮と言わざるを得ない。
結局のところ水掛け論の繰り返しになるのかもしれませんが、水掛け論だからこそ
今回国が一応の態度表明をしたことは、軽からず意味を持つものと私は判断します。
地裁レベルとはいえ、国家であろうとも強要は許されないと判じた、それが紛うことなき
国の姿勢ということになりましょう。
無論この裁判が結審を見るまでは、結論を出すのは早計ということになりますが。



子供は子供なり、大人は大人なり、教師は教師なりに考えて行動し、
それぞれがそれぞれの意見を持って然るべき。そういう時代になれば良いと思いますね。
先生に教えられるままに前へ倣い、教科書に書いてあるまま歴史を暗記するという
今までの子供に比べれば、何倍も健全ですよ。
煎じ詰めて言えば恐らく、「頭の悪い奴はもう生き残れないよ」ということなんです。

日本人と言っても人間ですから、君が代や日の丸に対して思うところは十人十色、
千差万別で然るべきです。画一的な制限を設ける方がどだい難しいというのは、
説明するまでもない自明の理でしょう。
大事なのは、様々な事柄について妥協せず自分でしっかり考え、意思を持つこと。
簡単に右顧左眄しないような、骨のある思考を常に胸に持ち続けること。
難しいことではありますが、これは大人のみならず、これからは子供にも要求されてゆくと
思います。情報の絶対量が変化し、思考の「材料」は雑多世間に跋扈していますから、
子供といえ簡単に流されるようでは、直截に言えば「バカ」な人間に成り下がってしまう。
鬼胎を抱くところでもあり、また反面感心するところでもあります。



国は、「押しつけるのはダメ」と判断しました。これは同時に、誰も正解を教えてくれない
社会になる、ということを意味しています。
子供も大人も一緒です。自分なりの“正解”を持っていてこそ、「思想の自由」の
社会に生きる者として、相応しい人間になれると思います。
君が代で着席した教師に共感するか、憤怒するかは我々の自由。
今回の記事の趣旨を踏まえ私個人の意見は書きませんが、私もまたしっかり考えて、
自分なりの考えを持つ労苦を厭わない人間でありたいと思っております。
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by taoyao | 2006-09-21 21:39 | ニュース

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