「保存」 是か、非か   

2006年 04月 10日

原爆ドームを、2045年まで現状保存へ 被爆百年目まで

 核兵器の惨禍を伝える「証人」で世界遺産の原爆ドームについて広島市は10日、少なくとも2045年まで現在の姿のまま保存すると発表した。
 平和記念施設の保存・整備方針の中で明らかにした。被爆60年が過ぎ記憶の風化が
危ぶまれる中「核兵器廃絶を目指す被爆地ヒロシマの役割はますます重要になっている」と
決定した。
(共同通信一部改変)



平和都市でありながら、平和に対して最も思考が停止した街……私はヒロシマを、
かつてブログを始めた直後にそう評した。
その考えは、大筋で今でも変わらない。



記事の中に、「記憶の風化が危ぶまれる」という一節がある。
これは、本当に正しいのかどうか。記憶とは本来、風化する物だ。
持ち主の手を離れた瞬間、それは記憶ではなく「知識」になる。

もちろん生で見るドームは迫力・臨場感があり、その惨劇をダイレクトに伝えてくる。
が、原子爆弾を本当に記憶しているのは当時生きていた人のみであり、
彼らが草の露となれば、ドームは遠い昔に起きた惨劇の、史料・教材に過ぎなくなる。
それ以上でも、以下でもない。
そしてそれに伴って、「記憶」は経年変化を起こし、「知識」に変わってゆくのだ。



60年という時は長い。疑いようも止めようもなく、原爆の惨劇は過去の物となっていく。
だが私は、それで構わないと思う。それが、ごく自然なことだからだ。
「守るべき記憶」という物は、存在しない。存在し得ない。
時が流れれば、モノも記憶も、いずれ世界から消え去って行くのだ。

60年間、世界は大きく動いた。生きている人間も変わった。
確かに原爆ドームは、大切に守るべき建物であるのは間違いない。大切な建物だろう。
だが、全てはいずれ、記憶から知識になっていく。そしてそれは、そう遠くない未来だ。



私達は、そろそろヒロシマから卒業すべき時を迎えている気がする。
ヒロシマを学ぶこと・伝えることは、目的であってはいけない。
それは60年を経た今、若い私達が責任を持って、未来に向ける「手段」でなければいけない。

いつか時が流れれば、私達は必ず「ヒロシマ」と決別せねばならない時が来る。
後から生まれ生まれては入れ替わって行く、それが人間であり、歴史というモノだからだ。
その時にまで意固地に「記憶」を留めようとするのは、或いは欺瞞であり、或いは潔癖だ。
そしてその潔癖こそが、ヒロシマが抱える、もうひとつの原爆後遺症なのだろう。



「記憶を伝える」というブルーローズを背負わされがちな、今にも崩れそうな古びた建物。
原爆ドームがヒロシマにとって、主観という毒素を抜けさせない枷になっているとしたら……
いつかドームが教科書の片隅にだけ残る頃、やっとヒロシマは一歩進めるのかもしれない。

それは、未来のために。原爆で亡くなった人の、恐らくは願い通りに。
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by taoyao | 2006-04-10 00:00 | ニュース

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